石牟礼道子

 はじめて水俣市が主宰した慰霊祭に、会場設営と受けつけをやった市役所吏員を別として、一般市民が、わたくしをのぞいてただひとりも参加しなかったのである。  そのようなことはしかし予想されないことではなかった。 水俣市全体が異様なボルテージを高めつつあったから。 三十四年暴動直後にくっきりと変わって行った市民の水俣病に対する感情がそっくりそのまま再現しつつあったのである。会社に対して裁判も辞さぬと朝日新聞に決意表明をした胎児性死亡患者岩坂良子ちゃんの母親上野栄子氏の家には、チッソ新労が洗濯デモをかけるぞというデマ情報が入っていた。 「水俣病ばこげんなるまでつつき出して、大ごとになってきた。会社が潰るるぞ。水俣は黄昏の闇ぞ、水俣病患者どころか」  仕事も手につかない心で市民たちは角々や辻々や、テレビの前で論議しあっている。水俣病患者の百十一名と水俣市民四万五千とどちらが大事か、という言い回しが野火のように拡がり、今や大合唱となりつつあった。なんとそれは市民たちにとって、この上ない思いつきであったことだろう。それこそがこの地域社会のクチコミというものだった。マスコミの関心の集中度とそれはくっきり反比例していた。水俣病に関する限り、どのような高度な論理も識者の意見も、この地域社会にはいりこむ余地はない。マスコミなどはよそもの中のよそものである。